柳原秀基の略歴説明


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若い頃

 1956年2月に大阪堺市に生まれる.中学時代は技術工作室に入り浸りで,エンジン模型などを作って遊んでいた.初恋だった女の子と一緒に受けた府立高校の受験に失敗し ,それから性格が曲がったのかも.なぜかその子も公立をすべってプール女学院に通うことになる.私の方は上本町六丁目近くにある上之宮高校に通い,上六,鶴橋,真田山 ,玉造,天王寺近辺をうろつく毎日.たまーにJR大阪環状線の桃谷駅で彼女に会うと,悲しい気分になったものだ.

 高校3年になり,大学の現役受験で国立校に失敗.要するに身の程を知らずに受験してたんですね.これでまたもや屈折.この頃から ,安部公房,大江健三郎などに傾倒.カフカなんてものも読んだが,結局 ,わけわからず.荒井由美(現松任谷由実)デビュー.はっぴいえんどにはまる.この嗜好は現在でも継続しており,Ami-go Gara-geNIAGA-LANDdaisyworldなどを覗いていたりする.)

注)この記述に対して2011/3/2に和歌山放送の古田誠さんからコメントがあり、現在の「Ami-go Gara-ge」は http://www.fussa45.net/ である.

 1浪後,山梨大学工学部機械工学科に潜り込む .ほとんど「受験なんてどーでもいいや.とにかく安くて確実なトコ」状態.甲府近辺の農家を主体に家庭教師アルバイトに精を出すが,収入のほとんどが古本屋のツケに消える毎月 .赤貧洗うが如し,という言葉を覚え,古本ばかりに囲まれて,極貧生活を4年間過ごす.おかげで未だにビンボーは怖くない.なんとかなるものだ.

 大学の研究で,NECの汎用機を使ったのもこのころ.FORTRANソースをパンチカードに打ちまくり,FFT(高速フーリエ変換)で自然対流熱空間の温度場変動のスペクトル解析に夢中になる .実験が夜中でないとできなかったため ,待ち時間にHPの逆ポーランド記法プログラム電卓でスペースインベーダを作り徹夜を繰り返す毎日(単にゲーセンに行く金が無かっただけである).

 そのうちに研究室の倉庫で埃にまみれていたテレタイプ付きのHITAC10IIを発見.アセンプラでスタートレックゲームを作り徹夜 .このころから,生活が夜昼逆転しはじめる.卒論は,「自然対流熱伝達のスペクトル解析」だった.教授が「これからは,エネルギー問題とコンピュータの時代だ」と説教 されていたのが,妙に頭に残っている.


パソコンを覚える・8bit時代 (1979年〜)

 学部を無事4年間で卒業.ま,もともと実験とかは好きだったしね.1979年(株)クボタに滑り込む .最初は新日鉄名古屋製鉄所内にあるクボタの鋳物工場勤務.ちょうどそのころ,NECがPC-8001を発売したので,5インチFD2ドライブ,プリンタ ,カラーモニタ付きのフルセットで1台を会社で購入してもらう.購入稟議に何ヶ月かかかった覚えがある.それまで,FORTRANしか知らなかったが,ここでN-BASICを覚える .カラーディスプレイに感激(単純)し,再びスタートレックゲームに溺れる.あーあー

 そうこうしているうちに,CP/M80が出てきた.BASIC,PASCAL,FORTRANなどがコンパイラで提供され始めた .遅いことや,数値計算ライブラリがあまり充実していないことを除けば,まあ,なんでもアリである. 時代は石油ショックの後で、省エネルギーが課題になっており、たまたま設備設計仕事で,熱伝達・熱伝導計算をしなければならなくなったのが運の尽きであった .ごりごり2次元の差分方程式を解くコードを書き始める.


大阪に転勤・16bit時代 (1982年〜)

 名古屋に3年いたら,転勤命令.こんどは兵庫県尼崎市にある鋳物工場勤務.転勤してみると,OKI if-800(8bit)が2台ころがっていたが,パソコンはそれだけ.8inchFDDで動くMelcomの旧式オフコンもあったが,手を付ける気起こらず.ちょうどNECが最初の16bitパソコンであるPC-9801(元祖)を発売したので ,漢字ROM付きでこれを買ってもらう.64KB RAM, 8086の8MHzぐらいだったと思う.8inchFDDからCP/M86をバキンバキンと唸りながら起動させていた.ナツカシー

 そうこうしていたら,CP/M86上でTurbo Pascalが使えるようになり,これで2次元凝固解析(金属の凝固潜熱を考慮しながら,熱伝達・熱伝導計算を差分法で解く)のコーディングにはまる .計算を始めると1週間ちかく,音沙汰のなくなるコードであった.メモリが足りないので,計算途中結果を逐一FDに吐き出していたので,自業自得.結果のビジュアル化まで手がまわらず ,計算結果のグラフを手で書いていた.情けない.if-800とPC-9801間でのRS-232Cのシリアル通信にはまったのもこのころ. まあ,でも楽しい日々でございました.そもそも,この辺でシリアル通信をやったりしたのが運の尽きだったのかも.


オフコンとパソコンLANにはまる (1985年〜)

 そうこうしているうちに,Melcomの旧式オフコンで稼動していた生産管理システムの更新計画がもちあがる.パソコンをいじっているお前なら設計できるだろう ,などと騙されて,システム分析・基本設計をやらされる.次期ホストは,IBM SYSTEM36.RDBMSなどは無い時代である.このOS(SSP)で初めて,マルチユーザ・ダム端(5250)環境が面白くなった .同時に初めて事務処理システムの地獄にはまる.

 外注ソフト会社のSEとの付き合い方を覚えたのもこのころ.まったくの人手仕事なので,SEさんのやる気をいかに引き出すかが ,開発仕事に大きな影響を及ぼすことや,仕様打ちあわせの段階での曖昧さが,致命傷になることも経験する.

 その後,80286のPC-9801でMS-DOS & Net Oneのファイルサーバを作る.要するにLan Managerみたいなもん.CPUの乗ったインテリジェントなEthernet Cardが10万円もしたが仕方が無い.ここでファイルサーバの味を知る.工場内に10BASE-5を3セグメントほど引き倒す. 事務所のコンクリート壁にも穴をあけちゃった.TCP/IPに始めて接する.


多変量解析にはまる

 鋳造品の品質・製造条件について解析する必要に迫られたため,慌てて勉強を始める.結局,多変量解析のうち,主成分分析,重判別解析や重回帰分析にはまる .解析データエントリーの為に,dBASEIIでデータ管理アプリを組む.RDBMSの面白さにはまる. だって,大量データのハンドリングが楽ちんなんだもん.

パソコン通信にはまる

 何気なく月刊ASCIIを読んでいたら,田村の300bpsの音響カプラが目に付き買ってしまう.そのままパソコン通信などを始める .商用ではNifty ServeとMasterNetに,草の根ではWave-Netなどの電子会議室に溺れる.和歌山県庁企画部情報システム課に出入りし,岡良樹君と徹夜を繰り返す .ネットワークコミュニケーションは人の生活をどう変えていくのかをさんざん議論したものだ. 西宮市の「情報倉庫にしのみや」で,竹中ナミ氏に出会う.

 調子に乗って,工場の中で1回線ホストを立ち上げ,Sysopを名乗る.ユーザに好評だったので図に乗り,えいやっと16回線ホストまで拡張 .ホストプログラムの作者はやはり岡良樹君.Aris-Netと名づける .会員数約700名.無手順通信ソフトのマクロ書きまくり状態,フリーソフトダウンロードしまくりの日々が続く.組織内コミュニケーションシステムとしての利用方法を模索する .モデムは9600bpsの時代だ.

 そうこうしていたら,Windows3.0が出荷されはじめたので,PC-9801RAにほうり込もうとするが,インストールの途中でこけまくり ,結局立ち上がらず諦める.


また転勤・Windows時代

 1992年,難波の本社に転勤になる.営業部隊を対象にした情報システム構築の初期調査・企画・予算どりにかかる.Windows3.0で懲りたので ,PC-9801を諦め,AT互換機に乗り換る.

 三ノ宮のシーコムで組み立てPCを購入.DOS/V+Windows3.0にDispray Dispatch Driverを組み込み,日本語対応.コンベンショナルメモリとの戦いもあり,なかなか楽しい時代であった.サーバにはNetWareを導入.1GB HDD 2台をヒートクラッシュさせ,泣く.

 シーコムのルグワニさん,元気してるかなー


WindowsNT時代に突入する

 1994年1月にWindowsNT3.1ASが出荷された.NetWare上でのNLMサーバアプリ開発に悩んでいたので,すぐに飛びつく.某SI会社がTITAN(UNIX)+Oracleの提案をしてきたが ,蹴り飛ばしてWindowsNT3.1AS+SQL Serverを採用.河端氏とは ,ここで知り合う事になる.しかし今になって考えてみると,これは暴挙以外の何者でもなかった.

 クライアント側にはDOS/V + Windows3.1+ LanManager + SQL-Windowsを採用したが,コンベンショナルメモリの圧迫に泣かされる .その後,SQL Windowsを捨て,Visual Basicでアプリを書き換える.やはり,クライアントもNTでなければ,とココロに誓う.


執筆などを始めてしまう

 1996年の春,クボタエイトサービス原水君が入社.某沖縄料理店で馬鹿話に盛り上がっていたところ,Windows NT World編集部から原水君にイントラネット・SQL Serverネタで執筆しないか,とお声がかかる.その話しが柳原に流れ,河端+柳原で執筆を始める.1997年5月号からは,IDGの鬼のような編集部にそそのかされ「システム管理者の眠れない夜」の連載を始める.

http://www.idg.co.jp/win2000/index.html


JWNTUGと出会う

 1996年11月27日.東京で金子さんがJWNTUGの発足を宣言 .幹事として参加する.


親父が永眠する

平成9年(1997)10月15日20時53分永眠.大正11年3月27日生 享年76才.一時,ネットワーク活動を停止.JWNTUG幹事を辞任.


NT-Committee2に参加する

1997年11月27日.長万部で佐藤喜一郎さんがNT-Committee2の発足を宣言 .参加する.4月下旬,相変わらず具志で飲んでいたら,原水さんが,「眠れない管理者のML」を作る!!と宣言 .以後,毎日50〜100通以上メールが増えた.


NTの勉強会を始める

 1998年3月から,勉強会を企画するようになる . 今でもやってます.


はるなのネタと化す

 NT-Pressさんにはほとんど書いていないのに,マンガには登場することに.


「システム管理者の眠れない夜」が出版される

2000年11月
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872804171/

組織票のおかげで(笑)、一瞬はAmazonで1位になる。


「憂鬱なアドミニストレーター」セキュリティマガジン連載

2001年10月より,第1号〜第7号
http://www.shoeisha.com/mag/sec/


「システム管理者の眠れない夜【新装改訂版】」が出版される

2002年12月
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872804805/


クボタを退職して,大学院へ通う

 2002年の年末,クボタが早期退職制度適用年齢を45才まで引き下げることが判明.もちろん退職金は若干上乗せされるので,これを原資にして大学院 (大阪市立大学大学院創造都市研究科都市情報学専攻 情報基盤研究分野)に通うことにする.

http://www.gscc.osaka-cu.ac.jp/


PCネットワークの管理・活用を考える会

 2003年9月より,クオリティ(株)が運営する PCネットワークの管理・活用を考える会 の分科会座長となる.同時に、ここのサイトにコラムを寄稿するようになる。


暗黒のシステムインテグレーション2 <コンピュータ文化の夜明けのために> ,対談

 2004年秋,森正久さんの連載がムック化.「暗黒の対談」に参加.森さんって頭の切れる人で,めちゃめちゃ楽しかったです.


博士(後期)課程へ

 2005年3月,修士課程を無事に修了.続いて博士(後期)課程へ進学することに.企業の情報化に関するコンサルタント,講演,アドバイザーなど承ります .


大阪成蹊大学 非常勤講師

 2006年前期,大阪成蹊大学現代経営情報学部での非常勤講師となる.担当科目「情報セキュリティ」「リスク管理論」


セイ・テクノロジーズ(株)のチーフ・アーキテクトとなる

 2006年7月〜2008年6月の間,毎週金曜日は東京へ通勤.2006年10月からは木曜と金曜の週二日体制へ.BOMの開発に参画する.


「 新・システム管理者の眠れない夜」が出版される

  2006年8月,3冊目を出版.今度は黄色になった.次は何色にするんだろう・・・


大阪成蹊大学 非常勤講師

 2007年前期,昨年に引き続き,大阪成蹊大学現代経営情報学部での非常勤講師となる.担当科目「グループウェア活用」「リスク管理論」


大阪成蹊大学 非常勤講師

 2008年前期,昨年に引き続き,大阪成蹊大学現代経営情報学部での非常勤講師となる.担当科目「グループウェア活用」「リスク管理論」

 2008年6月末にて,セイ・テクノロジーズ(株)への毎週の通いは終了.

株式会社エスアールアイ 非常勤顧問となる

 2008年7月より,不定期に顧問として参加.海南市にサテライトオフィスを構築中.プログラマ,サポートエンジニアを募集しています!

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

 2008年10月〜12月の間,「生産工学」を担当.


大阪成蹊大学 非常勤講師

 2009年前期,昨年に引き続き,大阪成蹊大学現代経営情報学部での非常勤講師となる.担当科目「グループウェア活用」「リスク管理論」

帝塚山大学 非常勤講師

 2009年前期,帝塚山大学経営情報学部の非常勤講師となる.担当科目「 情報とキャリア」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

 2009年6月〜9月の間,「情報社会学」を担当.


株式会社エスアールアイ 和歌山オフィスを設置

2010年1月,海南オフィスを閉じて,JR和歌山駅前に移転.通勤がめちゃめちゃ楽になりました.

大阪成蹊大学 非常勤講師

2010年,昨年に引き続き,大阪成蹊大学現代経営情報学部での非常勤講師を担当. 前期「リスク管理論」、後期「グループウェア活用」.

帝塚山大学 非常勤講師

 2010年前期,昨年に引き続き、帝塚山大学経営情報学部の非常勤講師を担当.科目「 情報とキャリア」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

 2010年6月〜9月の間,「産業用ネットワーク」を担当.

システム管理者の会

オブザーバとして参加。ポータルサイトにコラムを寄稿。


大阪成蹊大学 非常勤講師

2011年
前期:「情報産業論」、「リスク管理論」
後期:「グループウェア活用」

帝塚山大学 非常勤講師

2011年
前期:「 情報とキャリア」と「情報と職業能力B」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

2011年6月〜9月
「産業用ネットワーク」を担当.

新潟県立大学 非常勤講師(集中講義)

2011年11月〜2012年1月
「DTP・マルチメディア演習」


大阪成蹊大学 非常勤講師

2012年
前期:「情報産業論」、「リスク管理論」
後期:「グループウェア活用」

帝塚山大学 非常勤講師

 2012年前期:「 情報とキャリア」、「情報と職業能力B」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

 2012年6月〜9月の間,「産業用ネットワーク」を担当.

株式会社エスアールアイ 和歌山オフィスを閉鎖

2012年12月 JR和歌山駅前のオフィスを閉鎖.非常勤顧問を退任.


大阪成蹊大学 非常勤講師

2013年
前期:「情報産業論」、「リスク管理論」
後期:「グループウェア活用」

帝塚山大学 非常勤講師

2013年
前期:「 情報とキャリア」、「情報と職業能力」
後期:「 情報とキャリア」、「情報と職業能力」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

 2013年6月〜9月の間,「産業用ネットワーク」を担当.


大阪成蹊大学 マネジメント学部非常勤講師

2014年
前期:「情報産業論」、「リスク管理論」
後期:「グループウェア活用」、「データベース活用」

帝塚山大学 経営学部非常勤講師

2014年
前期:「 情報とキャリア」、「情報と職業能力」
後期:「 情報とキャリア」、「情報と職業能力」

近畿職業能力開発大学校 非常勤講師

2014年6月〜9月
「産業用ネットワーク」

2014年10月〜2015年3月
「品質管理」


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